2015年02月27日

「生き方教育としての走教育」考⑤

ここまでの流れを振り返ると、

恩と縁

そこから

良縁と悪縁に関する内容だった。




恩と縁により

生きる&走る習慣が身に着くと

ある種の制約を生む。



その制約は

自ずと生まれたものと

自ら生んだものがある。


宿命と運命である。

動かせないものと動かせるものである。




これらに基づくことが

自然かつ自由に生き

自然かつ自由に走るための要となる。


これらに基づくことが

普通に生き

普通に走るための要となる。




恩と縁から

職を選んでいるかどうか

友を選んでいるかどうかである。




その前提として

己育てを続けているかどうかである。



いつからか

公私混同が否定される社会となった。


いずれかをいずれかの言い訳にすることが許されるようになった。


「ごめん、仕事が…」

「すいません、家庭が…」


恩と縁を見事に裏切る行為である。





意識レベルと人間レベルが

一言に露呈される一事である。




公私は切り離せないものである。

公私は連続性を伴うものである。



「でも」の多用が許されるようになった。





真の走者に引退はない

真の職人にも引退はない

一貫しているからである。

連続しているからである。

走者も職人も

必要性・使命感のみで動く人物であるからである。



恩と縁が

自然かつ自由に生み出されたものであれば


制約とて

自然かつ自由に生み出されるはずである。



制約を自ら設けるはずである。



燃焼するための制約

躍動するための制約

飛躍を遂げ

貢献度を上げ続けるための制約を

自ら設けるのである。




制約を歓迎し

制約と共に自由に生きるのである。

制約と共に自由に走るのである。





制約を受け入れることのできない走者が

自滅を繰り返すのである。

家庭を破壊し

職場を破壊し

人間関係を破壊していくのである。

何もせずに一生を終えるのである。

子どものまま

すがるのみの一生を過ごすのである。



制約を大いに生かすのである。

制約を受け入れて生きるのである。

制約を受け入れて走るのである。

(つづく)


同じカテゴリー(生き方教育としての走教育)の記事画像
研究の方向性
教科開発学実践論
復学します
個に光を
再現性について
多大なる失態(文系の厳しさ)
同じカテゴリー(生き方教育としての走教育)の記事
 研究の方向性 (2016-10-08 11:26)
 教科開発学実践論 (2016-10-02 22:22)
 復学します (2016-09-30 22:06)
 個に光を (2016-06-05 22:30)
 再現性について (2016-05-30 22:04)
 多大なる失態(文系の厳しさ) (2016-05-29 21:28)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
「生き方教育としての走教育」考⑤
    コメント(0)