2018年03月29日

走生塾は学会公認クラブ(?)です

お世話になります。


(いまさらながらですが)

今年度から改名した

現在の走生塾(そうじょうじゅく)も

ランニング学会公認クラブになります。

※こちらとしてはクラブではなく学習団体です

https://www.e-running.net/0370club.html参照


公認クラブの基本条件には

1.自己管理のできるランナー、モラルの高いランナーの育成
2.認定指導員、ランニング学会員が、ランニング科学に基づき適切な指導
3.ランナーとしてのマナー、身体のケア、障害予防、生活全般の指導

が挙げられています。


全国では13団体が認定受け、

東海地区では唯一となりました。

存在実態も活動実態もよりレア化が進んでいる現状です。

今後の行くへは今後が決めることになります。

引き続き宜しくお願い致します。


追記)

来年こそ学会発表します。
  


Posted by 走る先生 at 13:00Comments(0)

2018年03月25日

第1期走生塾修了【重要】



こんばんは。

本日もこの1年も
ご参加頂いた皆さま

ありがとうございました。

本日をもちまして

第1期 走生塾

全18回全ての活動が幕を閉じました。

最後の最後まで濃厚な時間をありがとうございました。

台風以外の理由で外すことなく
駆け抜けることができたことを嬉しく思います。


このあと、

第2期について参加のご希望を頂いている方を対象に

「伝助スケジュール調整」及び「パスワード」を送らせて頂きます。
※あまりに少ない箇所は調整が入ります

参加・不参加の連絡がお済みでない方は3月中にお知らせ下さい。
(メールが届く方全員が対象です)

4月2日には来期日程の確定版を送らせて頂きます。

入塾辞退のご連絡を頂いている方は

1、 都度参加のご希望の有無
2、 メーリングリスト継続または停止をご希望

以上2点を二見までお知らせ下さい。
(勉強会が増えるかもしれません)

今月中にお知らせのなかった方につきましては
不参加・辞退と見なさせて頂きます。
(メールからは外れます)

メールメンバー以外の希望者がいる場合も二見までお知らせ下さい。
メール登録からスタートです。

宜しくお願い致します。



  


Posted by 走る先生 at 22:34Comments(0)

2018年03月19日

走生の懸け橋②(何を手掛かりとするか)




第2弾は

「何を手掛かりとするか」

である。

進める上での留意点はいくつかあるが、
客観性の獲得はまずもってクリアしなければならない。

興味を持った本や資料にのめり込むのは
おもしろいかもしれないが

自身だけが心地よくなりすぎて
他の理解を得られないことの方が多い。

とはいえ、

路線を誤らなければ
脱線を許さなければ

手掛かりにできるものは多いようで
実は限られるだろう。


読んだ方がよいものはたくさんある
逢った方がよいひともたくさんいる。


が、
読むべきもの
逢うべきひとというのは

路線を誤らなければ
脱線を許さなければ実は限られる。



とはいえ?、
必ず脱線する。
道草や寄り道にヒントやチャンスが潜むことがあるからだ。
道草や寄り道に救われることも多々あるからだ。
(矛盾を受け入れよう)


最後まで貫くために必要なことは

特攻ではない。


波打ちやスパイラルや緩急が必要である。
無であったり横蹴りであったり

ぐしゃぐしゃになりながらまとめあげていくのである。

実はさぼりやあそびが功を走す。
そのあたりを言い訳的に堂々と記しておくことで
メンタル操作をクリアしたい。

研究の大半
いやいや人間生活こそ大半が精神活動だからだ。
だからこそ今回は“肉”の話・研究ではない。

大きな結果には必ず裏文化が存在するのである。
みんな結果を出すために“うまく”やっている。


いってみよう。

・・・





・人も走れば縁にあたる

この知見に辿り着いた。

多くの八方美人が経験することである。


テーマが定まらないまま
いろんなところに首を突っ込んで
気づいたら知り合いは増えている。

あくまで知り合いであり、
そう思いたいが、
心でつながっているかどうかは別の話だ。
(SNSとて冷めてみると気持ち悪いでしょ)


ともあれ
前進を続けていると縁にあたるのである。


前回の山﨑先生もそのお1人であった。


思いが強烈なものは
それが本人と時代に逢ったものであれば

ボコボコとぶつかりながらボコボコにされながら、
きっと実現する。
(やっぱりメンタルが大事)



差し当たり、

手掛かりとしていく(つもりの)ものを挙げておこう。
レースへのエントリーのような意志表示である。


キーパーソンの1人に山西哲郎先生がいるが、

その山西先生が編集する
『ランニングの世界』にはあたっておく必要があろう。
その中の山西先生の言説はしっかりと整理していきたい。

現在第22巻までが発刊されている。
22冊を取捨するだけでもずっしりだ。

第22巻では私自身も寄稿させて頂いた。
「自著を語る」という編集後記のようなものになった。
山西先生は『明日の学び舎』の推薦文を書いて頂いたご縁でもある。

やりたいとかやりたくないとか関係なしに
やらざるをえないことはたくさんある。
それがホントの仕事のような気がしてならない。

やらなくてもいいようで
導かれるがごとくやってしまうのである。
ここでの著述もその1つだ。


練習日誌のような
受験手帳のような
研究履歴である。



いましばらくは「質的研究」になる。
(それで終わる可能性もあるが)


その「質的研究」をも
しかと理解しておく必要がある。
しっかりとあたっておく必要がある。

「あたり方」であるが、
同一人物の著書を網羅的にあたれば
他にあたらなくてもおおよそクリアできるように思う。



佐藤郁哉も良いが
非常にボリューミーなため好井裕明を選ぶ。
何よりタイトルをみるだけでも刺激をもらう。
新書というライト感がよい。


『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』(光文社新書)
『違和感から始まる社会学』(同上)
『「今、ここ」から考える社会学』 (ちくまプリマー新書)


このあたりだろうか。
KJ法の川喜田二郎も中に入っているのでは?と読める。



質的研究に対しての考え方を整えたら分析方法を学ぶ。

こちらは佐藤の

『QDAソフトを活用する実践質的データ分析入門』(新曜社)

がにおう。

現に半年以上前に「教育フィールドワーク論」という授業でご紹介頂いたものだ。
(未読…)

文字データを整理して「意味の世界」を掘り起こし、
論文としてまとめていくための技法を謳ったものである。

そこまでやってようやく本線となろう。



いやはや

1人を網羅的にというのはここでも該当する。

山西先生にあたると、

・ジョージ・シーハン
・パーシー・セラティ
・今井尚英
・灰谷健次郎

が頻繁に引用されている。
また「走生の懸け橋」に強い関連性を感じるものである。

『三途の川を走って渡ろう』
『ランニングダイアリー』
『永遠のセラティ』
『走る生活』

あたりも差し込む可能性がある。


しかし
ここまでは一般書である。
学術論文での先行研究を今一度整理してみたい。
次回かな。



過程そのものが人間観を研くこと・磨くことのような気がしてならない。

過程そのものが本気であればある程、

歩みというよりも走りという言葉が当てはまるのではないか。

走るという概念を再構築する研究になろう。





初心忘るべからずではないが、

ここに山西先生からの推薦文を引用しておきたい。
『明日の学び舎』(p519-520)


・・・・・・・・・
走りて学び生きること       山西哲郎

 「タカユキ。じっとしていて小鳥の鳴き声をきいたり、蝶の飛んでいるのを見るのと、走っていて、それを見たりきいたりするのではどこかちがうと思わないか」
 小学校の教師から児童作家になりそしてランナーになった灰谷健次郎さんは、著作『ほほ笑みへかけのぼれ』にこう述べながら、子どもたちがマラソンを走るまでを表している。灰谷さんと僕は、淡路島や沖縄の自然のなかを共に走りながら、心地よく感じながらよく話をしてきた。
 二見さんが本著を「走ることは単に方法を追うのではなく、考え、生きることにつながっていくことである」と書き始めているが、まさに灰谷さんの世界であり、それはかつてのオーストラリアの世界的コーチであったパーシー・セラテイの思想につながっていく。
 僕は大学でマラソンを始めたとき、セラテイの本の出会い「ランニングは芸術だ」という一文で、走って感じることにこだわり、学生や市民ランナーと言葉によってともに書き表すことが指導の根源となった気がする。
 二見さんは子どもの教育に走りを生かせないかと、『明日の学び舎』と題して日々の授業によるランニング教育のストーリーを創造するという誰しもやりとげなかった大作に挑んだのである。
 二見論は国語、算数、理科・・といった教科とランニングを融合させることは科学という教科を子どもにとって欠かしてはならない感性によって教育の本質を成立させることである。ルソーは「人間よ、より人間的になれ」とするが、走ることは、より人間的に学ぶことになると二見さんの著作から学ぶのである。

・・・・・・・・・・


続く。




  


Posted by 走る先生 at 12:58Comments(0)

2018年03月14日

走生の懸け橋①(キーパーソンに逢う)


タイトル「経過」を前ブログ名に変えた。

「かけはし」は「懸け橋」とした。

正しい構えを保持するためだ。




ここに書き残すことは

・次にやるべきことを明確にする

ためであるが、

履歴を残すことで

・過去の自分に立ち返ることも
・過去の自分を塗り替え続けることも

できると考えるからだ。

続々が続く経過を辿る。


・・・



サブにある「キーパーソンに逢う」というのは

手掛かりとなる知識や経験を持つ人物に触れるということである。

命題が大きいが故に、

全てのこと・ひとに手掛かりがあるともいえるが、

八方美人化による空中分解は避けたい。
現在はむしろ空中分解中である。

全てがうようよと濁っている。
全てがよくわからない羅列状態。


キーパーソンは何名か(何名も)いるが

諸条件からの優先順位をよく診てあたっていきたい。


自分の中にリストはでているが、
ここでは列挙せずにスゴロク式にいく。

・・・

早速、

昨日は山﨑保寿先生にお逢いした。
https://tdb.shizuoka.ac.jp/RDB/public/Default2.aspx?id=10754&l=0

主査の先生が不在中の期間限定でご指導をご担当頂いている先生である。

が、

私自身があまりに個人の作業に向かっていたため、
これまで一度も伺うことなくこの時期になってしまった。

3月4日(日)の教科開発学研究会で初めてご挨拶という流れとなった。

そこでまた驚愕の事実を知る。

山﨑先生は防府読売マラソンに出場されるほどのランナーだったのだ。

ならびに

私の母校である藤枝東高校で陸上部の顧問をされていたことを聞く。

驚いたが熱意は磁石とはよく言ったものだ。



先生の研究領域の1つに

キャリア教育がある。

私の研究と関連させれば

走は広義のキャリア教育になり得るのではないか。

と仮説が経つ。



それを話して、

一度頷いて頂いたが、

突っ込んだ話はそこから始まった。

「深淵だけど万人向けではないですね」

そして

「研究的に未開拓な領域なので」
「独自の価値を理屈で持って実証していく必要がある」
「実証というより検証、立証、いや…論証ですね」
「雑なメモではなく文章で書いていかないとダメですよ」


ご指摘全てが突き刺さる。

八方美人化を避けるとともに、
独りですべてをやろうとしてはいけない。

理屈と論理と客観性が求められるからだ。

「スポーツ科学の大半は成果を確かめればある程度クリアですが」

「あなたの場合は実践に移すとむしろそちらが弱くなってしまう可能性がある」


確かに。

極めて哲学的な領域になる。
真理を哲学とは追究する学問だからだ。

哲学者を目指しているわけではないが、
結果的にそうなる可能性もある。

かの山西哲郎先生であれ
多くの伝説を残してきたトップアスリートであれ

そうでしょう。


そういえば、
以前山西先生から1964年東京五輪のエピソードを聞いた。

「マラソンをみていると走ってきたアベべに対しておばさんが」
「哲学者が走ってきた!っていうんですよ」
「二見さんはどう思いますか?」

定かではないが、
「そうなるんですね」
程度で答えた記憶がある。

これとて1つの事例である。

・・・

山﨑先生に戻る。

「なので哲学的な部分を、数は少ないだろうけど文献や論文から引用して」
「それぞれを対立させながら、自分でも批判しながら論証する必要がありますね」
「哲学論文としていわば根拠となる水準をつくり」

「そこから次にいく」
「でも実践するほどわかりにくいから論が弱くなるか…」
「とにかく規定なので全国紙に2本以上まずやらないといけない」


「持論の本を書いてから向かうのもいいが」
「博士号の力を持って本を書いた方がよりよい文章になると思います」

だいぶすっきりしてきた。
かなりすっきりしてきた。

本を書く作業は解毒でもあった。

『王様の耳はロバの耳』ではないが
過去の自分は外に吐き出したくて仕方がなかったのだろう。

「ランナーの脚は人材の脚」と。

それを森の葦がいうように

共感を得て頂いた方が草の根で動いているわけだが。

「人間は考える葦である」(『パンセ』パスカル)ですね。



前回の通り、

数少ない事例をかき集めることである。
より有効なものを集めることである。

やはり学校教育とは現在同系列にない特殊例となろう。


事例①誰はこうした
事例②誰誰はこう考えた
事例③誰誰誰はこう考えこうした

以上3つの事例はこの点では重なりこの点では異なる。

しかし総じていえばこのようなことがいえる。

これに関しては
心理学領域ではこのように語られ
哲学領域ではこのような指摘がされ
教育界ではこの点と重なる。

実際は

より複雑な動きの中で簡素化を目指していくことになるが

おおよそそのような展開となろう。



暫定であたり得る学会は以下の3つである。

・人間教育学会
・人間発育発達学会
・ランニング学会

「学会での質疑はその場限りだからゼミの代わりになる機会を設けた方がいい」
「現在の専攻は現職の教員が多いためゼミを頻繁にできないことが弱みでもある」



先生は県庁に用があり、
二見車で移動しながら頂いた言葉である。


制約をうまくコントロールすれば
私は現職教員よりは大学に出向きやすい。

自分でいくと決めていくのがベストだが、

何らかの拘束力を設けるために
TA(ティーチングアシスタント)の“仕事”を頂くというのも手だろう。

ボランティアでは“制約がないという制約”がある
これとて真理である。

制約の操作はトレーニングメニューの調整と同様である。
メンタリティとバイタリティを動かすことができるのだ。
結果も自ずと動く。

TAにより授業の様子、
先生方や学生諸君の様子を目の当たりにしていくことも

研究には大いにプラスになると考える。

その辿りを含め

最終的に国家に貢献する論文とその後の活動が始まれば

それに越したことはないだろう。



山﨑先生は
静岡大学の理学部ご出身

その後、
高校教員をされながら
筑波大学で修士号と取られ
その10年と半年後に
信州大学で博士号を取られました。

その後、
信州大学で教鞭を執られています。

大学から陸上競技を始め
3000m障害を中心にご活躍
10000mの自己ベストは教員になってからだそうです。

昭和50年代に高校教員が
10000m33分02秒
3000m障害県選6位
防府読売マラソン2時間47分
難易度は高いです。

が、

当時の他の教員からの評価はやはり2パターン

讃えるか呆れるか。

やれというかやめろというか。。

これは今も昔も変わりません。
この先も変わらないでしょう。


私が赤ん坊のころに闘っていた走る先生に出逢うことができました。
ましてや私がその後通うことになる高校に勤めていた先生でした。

これとて必然なのでしょう。

またも小平選手が話題になりました。

「国際大会に出るため(総合学習関連の)課題ができない」
という申し出があったそうです。

先生が代わりに出された課題は

「ロンドンにある博物館等に出向いてレポートしてくれればいい」

だったそうです。

ここだけ踏まえても、

全てを生かすという視点が人を創る

つくづくそのように思いました。


高橋進
君原健二
村社講平
円谷幸吉
織田幹雄
ファン・アーケン
パーシー・セラティ
フランク・ショーター
山西哲郎
嘉納治五郎


対話の中で主に挙がった人物です。

田島直人さんにもあたらないと。
殖やしすぎたくはないが。


そういえば

キーパーソンといえば
パーキンソン病を患っていた
ロジャー・バニスター氏の訃報が届きました。
https://mainichi.jp/articles/20180306/k00/00m/060/074000c

改めて氏の功績を讃えるとともにご冥福をお祈りしたい。

当時、
医学生が世界記録ということの価値が大きかったことでしょう。
本人は当たり前と思っていたとは思いますが。


日本国内でいえば、
政治家が9秒台とか
弁護士が2時間5分台とか

そうなったらますます世界も動くのでしょうが。
現時点では考えられません。




早稲田大学で走った過去
京都大学で走った過去が生きる日が必ず訪れます。




追)

山﨑先生は松本大学に移られます。

陸上部員のT選手も卒業後は故郷松本に就職するとか。

松本マラソンに出ようか。






続く。



  


Posted by 走る先生 at 11:35Comments(0)

2018年03月12日

続々経過(ダイレクトアタッカーへの転身)



一旦 学校への着眼を捨ててみたい。

共同教科開発学 という専攻領域にどう貢献するか

現在の立ち位置で求められていることであり、

くくりの中で語ることも
専門分野を特定することも
教育学のみならぬ研究において極めて重要である。


研究家の関係者は

多くが学校教育に目を向けた研究者であり
学校教育をよりよくしたい思いや願いがあり、

それはもっともなことである。

がしかし、


私が目指しているものと少し違う。

では専攻を変える?
となるかというとそれも違う。

専攻を特定できない領域である
専門的な話でもない領域である。


人間学のふるさとになり得る研究と

最後の最後には言い放ちたい。


・・・


思考の整理
試行の整理を続けたい。

(著述そのものが試行でもある)


ふと思ったが、

もしかしたら

この連投そのものが1本化される日が来るかもしれない。


根拠なき思惑だが、

そういうものがもっとあっていい。


『走生のかけはし(とある天命との終わりなき対話)』 

といったところか。


走ることを生きることにごりおしでつなげていこうとしているからだ。



ちょっとあやしげなタイトル。
いやそうとうあやしいタイトル。

わくわくしながらいこう。





・走を人間教育に生かす
・走る先生を育てる
・走ることで思考及び精神の整理ができる先生を育てる
・走ることで気づく知見を教育に生かすことができる先生を育てる

と表現の熟さない命題が並んだ。



ここでまた前回の自分を足蹴するが

一般的な先生でなくても良い。
本当は誰でも良い。


1、小学校における持久走教育はどのように取り組まれているか
2、児童たちはその持久走学習をどのように感じているか

そんなことも実はどうでも良いことも辿った。




多彩な走経験をしている大人が非常に限られる

これにも触れたが、


走経験をしたところで

ももともとの意図も
得られる知見も
てんでばらばらである。

それがあたりまえであり、

それらをまとめていくことそのものに大きな無理・矛盾がある。
(ここでの無理は妥協ではない、諦めでもない)





①大人ですら多くがわかり得ていない領域に進もうとしている
②学校教育においていまだ蠢く他のカオス的諸問題が夥しい

この2点から難しさの言い訳を吐いた。


そのあとで


「子どもたち」まして「学校教育」にあてようとすることに大きな“距離”がある。

ことを記している。

すでに前回の時点で気づいている。

学校である必要がないのだ。

教育者も
教育学者も
教育研究者も
教育学研究者も

学校教育に目を向けている方が大半である。

それはいたしかたない。

いわずもがな
社会の再生には
学校教育の改善・修繕が求められるからだ。



いやちょっとまて、

社会の再生には
社会の再生が求められるのだ。


ダイレクトアタッカーになってよいのではないか。


順じていたのか、

私自身も学校教育にどこかで仕向けられていた。

無意識的に自分で自分を学校に仕向けてしまった。

一般論に翻弄されているからだろう。
学校教員(超非常勤だが)でもあるからだろう。
教員免許を持っているからでもあるだろう。

こんなところもみえない縛りからくる弱さだ。


がしかし、


明文化されていない世界であることが事実であるのなら、

なおのこと

ハラを据えて、


・特殊例に攻めまくる


これが有効なのかもしれない。

いわゆる質的な研究である。


むしろ

マイノリティの活躍が社会をおもしろくするとも読んでいる。

いまもむかしも変わりない。

マジョリティは不平不満文句我儘を言うだけだろう。



事件の記事を感嘆符とともに共有する人間を私は信頼しない。

よからぬことをあおるくらいなら走れといいたい。

この2行とて同じことなのだが。



一定の統計から 心の躍動が起こるだろうか。

数値上の高い結果が出たからそれを採用しよう となるだろうか。


人気のあるものは価値があッ”タ”のかもしれないが、

ヒトがたかりすぎる状況になった時点で

オリジナリティも価値も消えうせた灰と化すのではないか。


わーわーきゃーきゃーいうでない。


ゆえに

自身も埋もれたくはないし
他者にも埋もれて欲しくもないのだ。


とっかかり

投稿論文を作成してみたい。

人間教育学会

という学会がある。

名前だけで判断することは本当はよくないが、

日本語を熟知している先生がいることを願って

ダイレクトアタッカーになってみる。

いままでが遠回りではなかったことを実証する。
全ての経過が遠回りでなかったことを実証する。

雑文はブログに。
論文は学会に。


続く。
  


Posted by 走る先生 at 11:27Comments(0)

2018年03月10日

依然経過(難解さの中身)


・走を人間教育に生かす


といった第1の命題を挙げたが、

実のところ

・走る先生を育てる

という裏の命題がある。

正しくは

・走ることで思考及び精神の整理ができる先生を育てる
・走ることで気づく知見を教育に生かすことができる先生を育てる

となろうか。

表現はまだ熟していない。



そのため

前回の

1、小学校における持久走教育はどのように取り組まれているか


これすらあとづけに過ぎない。

持久走をどうこう動かしたところでその成果の程度は見えている。
持久走の追究にエネルギーを割く価値を自分に対して問うている。
他の研究者・教育者が行っているからでもある。


2、児童たちはその持久走学習をどのように感じているか


ここは感想文分析になるが

テキストマイ二ングといわれる研究手法を用いて体育全般においては行われている。

人間教育を掲げるのであれば

いずれにせよ

なぜ走なのか。

まず第1にクリアすることだろう。

素材は集まりつつあるが、
それらの素材を使う理由を含め客観的な著述が求められる。

ここだけでも相当ハード。


・多彩な走経験をしている大人が非常に限られる


といったポイントにももう少し突っ込んでいく。

ここも併せて

私が向かおうとしている研究の難しさを確認。

①大人ですら多くがわかり得ていない領域に進もうとしている
②学校教育においていまだ蠢く他のカオス的諸問題が夥しい

この2点だ。

「多彩な走経験」というのは

単に走り方の数ではない。
レースの種類と量でもない。
もちろんランニング仲間の数が該当するわけでもない。

ますます泥沼にはまりそうだが 踏ん張りたいところ。

①の「大人ですらわかり得ていない領域」

これを「子どもたち」まして「学校教育」にあてようとすることに大きな“距離”がある。

②の「カオス的諸問題」を考えると

それよりも(走るよりも)優先することがあるでしょ、となろう。



そこで開き直って


やった人しかわからない といってもしかたがない。

それが事実だからトンネルを掘り続けるのだが。

やった人でもわからない ことも加わるが。




もとに戻ろう。


私は持久走教育をどうこうしたいわけではない。
ランニング愛好者を増やしたいわけでもない。


走ることが大いに生きることの手がかりになり得る

ということを明文化し、
多くの方に経験を通じて気づいて頂きたいのだ。

走ることを誘っても

バリアを張る人の方が多いが、

誰からも言われずして

走ることにのめり込む人たちが

自らの人生を自ら改正していくケースは非常に多いのだ。

それは記録のみの走力から見えるものではない。

「こうしてみていると人となりが見えますね」
「心技体の言葉のように「心」が最初なんですよね」

先日の某マラソン大会の解説引用だ。

※マラソン中継は前中後に現れる言葉にぜひ注目して頂きたい


制限時間5時間30分のフルマラソン

5時間29分59秒でガッツポーヅ

5時間30分1秒で天を仰ぐ

(実際はちゃんと測定してもらえるようだが)

どちらにも価値があると思える。


ここでも記録のことを言いたいわけではない。


その背景とその後(いわば腹景?)はやはり多彩。

本人の心理や思考に関連しないはずがない。

といった観点である。




そもそも

エントリーという行動選択から

本人の意志も意思もあるわけだが。
そのことが心理にも日常にも影響を及ぼすわけだが。


またズレ出した。

大会出場を推奨しているわけでもない。


ようは

自ら体を動かすことで
いまの自分の状況を多角的に捉え
次の行動を模索・検討する

ことが日常の充実に変わり得る

その手段として走ることが手っ取り早い

といった概観を整理していきたいのである。


呼吸、代謝、解毒、脳制御のレベルが歩くことよりも遥かに高いことも参考にしたい。



ゆえに

☆走のプログラムを固定してはいけない

という視点に収束する。


他者と同じ距離・時間を走ることは

チェック、安否確認、競走機会、共走機会、対話機会

でよい。


運動と対話の存在はまずもって脳に良い。



本来は日々自ら整え自ら省み自ら次の行動を編み出す

しかないのだ。

だから選択の1つに

歩くことがあっても良い

となる。


人によるのである
時によるのである
応じることが求められるのである。


やった人にしかわからない
やった人でさえわからない

もはや禅問答になる。

(白隠展@静岡市立美術館にいってみよう)

禅の根源は武士道である。



こっちの領域はこれまた果てしない
ならびに現代人にはますます怪しまれるため
さらっといきたい。

実際は

本当のトップアスリートはこういう領域を語らずして知るわけだが。

またそもそも日本人らしさでもあるのだが
いまは表向けには通用しなくなりつつある。



理論大好き研究者が増えてしまった
理論大好き指導者が増えてしまった
理論大好き愛好者が増えてしまった


この点も みなさんはどう思うだろうか。


各スポーツ界

マスコミの問題もあるが、

理論を外した選手しか勝てない

この事実から顔をそむけてはいないだろうか。

最先端の○○を用いて

こんなものに興味がありますか?



語弊があるかもしれないが、

体罰もパワハラも従来教育力があるものでした。

理屈抜きで心と体を鍛えていかないと強くならないのです。

あ、

いつのまにか語調が変わりました。



(ここでの文章は私の思考ドミノなので了承願いたい)



闘うための知恵と引き出しを増やすしかないのでしょう。

万が一のことがあっても生き延びること・勝ち残ること

こういったものに着手しない限り

大衆に埋もれるだけの人生を送り続けるのでしょう。

(だから走る以外の手法があればそちらでよい)



走ればすぐに

というわけでは決してありません。



走ればその活路を見いだす可能性があるのです。




考えることから始めるのではなく

まずは動くことだと思うのです。

まずは動くための心を持つことからだと思うのです。




個人で子どもたちダケにアプローチをかけても限界があることは見えています。

そのため

私は大人と大人になろうとする人

特に大人になろうともがく人を厳しく応援していくために

いまの研究を進めていきます。


何のためにキープです。


続く。

※頂いたご意見・質問に対しては次回以降随時補います  


Posted by 走る先生 at 09:56Comments(0)

2018年03月05日

3/4教科開発学研究会のち(経過)

いまだに発表レベルまでいかない。

とりあえずのメモを残しておきたい。







・走を人間教育に生かす




このビジョンに変わりはない。

しかし、

いかなる教育も人間教育である。
(はずである)

何をいまさら

なぜゆえ走なの

そのあたりはロジカルに語り・綴る必要はある。



走全般において考えて生きたいとも思っていたが、

仮に持久走に目を向けるとする。



どんな流れが適当だろうか。

ここからは組み立てと知恵と粘りの勝負。

貫くメンタルをそろったら一気に行く。




調査手順、追究手順を考えてみた。


・・・・・・


1、小学校における持久走教育はどのように取り組まれているか

これは現場の教員にあたる。
先行研究他資料にあたる。
そういった整理。

何をやるかも
何のためにやるかも
その成果もしっかりチェック&整理。




2、児童たちはその持久走学習をどのように感じているか


自由な語りが欲しいが、
優秀な子かワイルドな子からしか返ってこないだろう。

おそらく大半が淡白な感情表現だろう。

A:好きか嫌いか
B:楽しいか楽しくないか
C:苦しいか苦しくないか
D:ためになるかならないか
E:重要だと思うか思わないか
(実際はもう少し細かく)


F:大人になっても日常的に走りたいと思うかどうか

ここも実は加えたい。

日常的に運動したいと思うかどうか。も知りたい。

生涯スポーツの謳いが現に指導要領にあるためだ。
そこにつなげられなければ教育の失敗ともいえよう。

この先が重要になる。




なぜその感情が起きていると思うか。

ここが最も知りたい。


ア:授業内容が面白いから・面白くないから
イ:先生が好きだから・好きではないから
ウ:そもそも走ることが好きだから・嫌いだから
エ:そもそも運動が好きだから・嫌いだから
(実際はもう少し細かく)


得意だから・苦手だから

になるかもしれない。

もしかしたら

オ:そもそも勉強が好きだから・嫌いだから
カ:そもそも学校が好きだから・嫌いだから

もありうるかもしれないが、
ちょっと飛躍が大きいので伏せよう。




ウ、エはおそらく過去からのア、イが影響している可能性がある。




さらに突っ込んで、

走ること運動することが好きなの・嫌いなのはなんでだと思う?
走ること運動することが好きなの・嫌いなのはなんでだと思う?

これらをえぐり出せば

その多くは

児童たちの背景、過去、環境のうち

関わってきた人に因る

と読んでいる。



・親が楽しそうに生きている働いているとそれは伝わる
・先生が楽しそうに生きている働いているとそれも伝わる



まだまだ幼い子どもたちはそれらを模範にするしかないからだ。

場合によっては友だちやご近所さん、親戚ともなり得るが

それはもう少し先の話。


まずもって一番近くにいる

(はじめは)
スーパースターだった人材・教材を模範とするのが
人間以外の動物たちとて自然でしょう。




となると

この先がますます重要になる。

先生が悪いのか?
親が悪いのか?
大人が悪いのか?






である。



(私は)


生かせていないだけである

と考える。


ここからが腕の見せ所だ。





まずもって

・多彩な走経験をしている大人が非常に限られる


という事実を踏まえる必要がある。


数値概念のみ
感情概念のみ

でしか評価ができない世界をうろつくだけで

大人になってしまうことが多いからだ。

それとて悪いことではない。



現代において


中間層を量産しがちな学校教育において
やむを得ない部分もある。

基本的にみんなが同じ勉強をするので。

成果も道もその後は異なるのだが。

そもそも同じことを学ぶということから

私にとっては違和感があるのだが。








では



教育者も研究者も必死だ。

生きる力を!
人間力を!
主体性を!
アクティブランニングを! ※わざとです
反転授業を!
フィンランドを!
脳科学を!
朝礼の充実を!
研修の充実を!
○○メソッドを!

スローガンのオンパレードとなる。

キーワード関連の著書があふれだす。



しかし多くが、

辿っていけば根本は変わらないはずである。




また実は

☆走のプログラムは固定してはいけない


この事実こそ知る必要がある。


否定表現ではなく


「より柔軟なプログラム」をとした方が適切か。

まあそのままいってみよう。


これに気づいた

というよりは表現が表れたのがこの1週間だった。

※浜練なんかまさに





確かに

体力をつけるために

一定の距離・時間を走らせること

を続けるのは間違いではない。

しかし

それを終始楽しめる児童は極極少数である。


飽きてきて
疲れてきて
体が重い子も

のらりくらり走っている光景を私は良いとは思わない。

体力がつくとはとても思えない。
むしろ逆だろう。



別の投掛け、提示方法があるはずだ。

歩かせる
走らせない
短くする
同じ時間ボールをつかせる
その場足踏みにさせる

アレンジは無限だろう。



しかしそれを知らない

もしくは

みんなやるからシンドロームに

大人の方から陥っているケースが多いのではなかろうか。



☆走のプログラムは固定してはいけない

のである。

チェックに使うのはよいが。


「柔軟な」というのは教育界で言われ続けているはずだが。




実は他の学習においても同様のケースもある。


人によるのである
時によるのである

応じることが求められるのである。




走という身体運動であるが故に
リアリティの伴う気づきや学びがあるのである。



ストップウォッチのお父さん
ストップウォッチのお母さん
ストップウォッチを先生

私は正直恐い。

一緒に走ってくれたらうれしい。

それは誰にでもできる。
やろうと思えばできる。

でも多くの大人ができない理由を並べ出す。




数値評価と感情評価以外の価値指標を教員・大人が持つ必要がある。


読書ではできない。
論文執筆でもできない。
現行のフォーマルな研究会・研修会でも難しいだろう。


ここでもリアルな経験でしか血肉化しない。





となれば


まずは教員もしくは教員志望の学生に


多様な
多彩な
多角的な

走経験をしてもらうしかないのではないか。

手がけてみればきっと楽しい。

きっちぃとか
もういやとか

いいながら楽しんでいる光景が目に浮かぶ。

じゃあ子どもたちにはこうしてみようと

独自にアレンジしたアイディアも浮かぶだろう。



その過程で確かに当事者たちは再生される。


心身共にうろこを落としてもらうのである。


既成概念や固定概念を崩しにかかるのである。


そのことが

走教育を変えるだけでなく

身体活動を通じての人間の考え方


つまり


思考習慣、行動習慣をも変えていくことにつなげられないか

と思う。



持久走教育、長距離走教育に関する研究はとりあえずたくさんある。

たくさんあるがゆえに

ダイレクトに教材研究に乗り出すのは私の仕事ではない気がしている。




それよりも


走教育がより充実し

そのことが他の教育また学習にも派生していく


いわば

カラクリを


いわば

循環を



学校内にも社会内にも生み出していくことが

今後の仕事ではないかと思っている。


まだまだランナーはマイノリティである。


ということは


ランニングはマイナースポーツであるのだろう。

別に走らなくてもよいのだが、

あらゆるツールになることだけは確かだろう。
(ここはもう少し資料と事実を生かして整理が必要)


みなさんはどう思うだろうか?




続く。
  


Posted by 走る先生 at 10:58Comments(0)

2018年03月03日

走生塾2018日程(仮案)



お世話になります。
来期の日程(仮案)を組んでみました。

調整が入る可能性もありますが、
まず上半期はこれで進みたいと思っています。

ご確認・ご検討頂けたらと思います。

「3時間ぐらいはいつでも動ける!」という

意志と意識を持つためにいきなり3時間走を入れました。
この日は1周TTではなく古墳まで駆け上がるTTがデザートです。

また今期の修了式の同日開催の川根桜まつりに行かれる方がおられるので
いっそのこと来期は川根遠征→川根温泉でしめようかと思っています。

年末年始はだいぶハードなので来期は外しました。

ご意見、リクエスト等ございましたら二見までお願い致します。

※今期の修了式(3/25)は12:30開始にスライドします



4/22(日) 8:00~12:00 挑戦会① 春の3時間走+古墳TT
4/29(日) 14:30~17:30 勉強会① 岡部

5/20(日)14:30~17:30 勉強会② 岡部
5/27(日)15:00~17:00 練習会① 競技場

6/17(日)14:30~17:30 勉強会③ 岡部
6/24(日)8:30~12:30 挑戦会② 3~6㎞×Max7本 ※40分サイクル

7/22(日)14:30~17:30 勉強会④ 岡部
7/29(日)15:00~17:00 練習会② 競技場

8/26(日)14:30~17:30 勉強会⑤ 岡部
9/2(日)6:30~10:00 挑戦会③ 夏の3時間走+滑り台

9/23(日)15:00~17:00 練習会③
9/30(日)8:00~12:00 挑戦会④ 1~3㎞×Max14本 ※20分サイクル

10/21(日)15:00~17:00練習会④ 競技場

11/18(日)9:00~13:00 挑戦会⑤ 冬の3時間走+1周TT
11/25(日) 11/4(日)14:30~17:30 勉強会⑥ 岡部

1/27(日)8:00~13:00 挑戦会⑥ 玉露の里Max7km*Max6本

3/24or31(日)練習会⑥(川根遠征??)

※日程は変更する場合があります


  


Posted by 走る先生 at 16:19Comments(0)