2018年03月05日

3/4教科開発学研究会のち(経過)

いまだに発表レベルまでいかない。

とりあえずのメモを残しておきたい。







・走を人間教育に生かす




このビジョンに変わりはない。

しかし、

いかなる教育も人間教育である。
(はずである)

何をいまさら

なぜゆえ走なの

そのあたりはロジカルに語り・綴る必要はある。



走全般において考えて生きたいとも思っていたが、

仮に持久走に目を向けるとする。



どんな流れが適当だろうか。

ここからは組み立てと知恵と粘りの勝負。

貫くメンタルをそろったら一気に行く。




調査手順、追究手順を考えてみた。


・・・・・・


1、小学校における持久走教育はどのように取り組まれているか

これは現場の教員にあたる。
先行研究他資料にあたる。
そういった整理。

何をやるかも
何のためにやるかも
その成果もしっかりチェック&整理。




2、児童たちはその持久走学習をどのように感じているか


自由な語りが欲しいが、
優秀な子かワイルドな子からしか返ってこないだろう。

おそらく大半が淡白な感情表現だろう。

A:好きか嫌いか
B:楽しいか楽しくないか
C:苦しいか苦しくないか
D:ためになるかならないか
E:重要だと思うか思わないか
(実際はもう少し細かく)


F:大人になっても日常的に走りたいと思うかどうか

ここも実は加えたい。

日常的に運動したいと思うかどうか。も知りたい。

生涯スポーツの謳いが現に指導要領にあるためだ。
そこにつなげられなければ教育の失敗ともいえよう。

この先が重要になる。




なぜその感情が起きていると思うか。

ここが最も知りたい。


ア:授業内容が面白いから・面白くないから
イ:先生が好きだから・好きではないから
ウ:そもそも走ることが好きだから・嫌いだから
エ:そもそも運動が好きだから・嫌いだから
(実際はもう少し細かく)


得意だから・苦手だから

になるかもしれない。

もしかしたら

オ:そもそも勉強が好きだから・嫌いだから
カ:そもそも学校が好きだから・嫌いだから

もありうるかもしれないが、
ちょっと飛躍が大きいので伏せよう。




ウ、エはおそらく過去からのア、イが影響している可能性がある。




さらに突っ込んで、

走ること運動することが好きなの・嫌いなのはなんでだと思う?
走ること運動することが好きなの・嫌いなのはなんでだと思う?

これらをえぐり出せば

その多くは

児童たちの背景、過去、環境のうち

関わってきた人に因る

と読んでいる。



・親が楽しそうに生きている働いているとそれは伝わる
・先生が楽しそうに生きている働いているとそれも伝わる



まだまだ幼い子どもたちはそれらを模範にするしかないからだ。

場合によっては友だちやご近所さん、親戚ともなり得るが

それはもう少し先の話。


まずもって一番近くにいる

(はじめは)
スーパースターだった人材・教材を模範とするのが
人間以外の動物たちとて自然でしょう。




となると

この先がますます重要になる。

先生が悪いのか?
親が悪いのか?
大人が悪いのか?






である。



(私は)


生かせていないだけである

と考える。


ここからが腕の見せ所だ。





まずもって

・多彩な走経験をしている大人が非常に限られる


という事実を踏まえる必要がある。


数値概念のみ
感情概念のみ

でしか評価ができない世界をうろつくだけで

大人になってしまうことが多いからだ。

それとて悪いことではない。



現代において


中間層を量産しがちな学校教育において
やむを得ない部分もある。

基本的にみんなが同じ勉強をするので。

成果も道もその後は異なるのだが。

そもそも同じことを学ぶということから

私にとっては違和感があるのだが。








では



教育者も研究者も必死だ。

生きる力を!
人間力を!
主体性を!
アクティブランニングを! ※わざとです
反転授業を!
フィンランドを!
脳科学を!
朝礼の充実を!
研修の充実を!
○○メソッドを!

スローガンのオンパレードとなる。

キーワード関連の著書があふれだす。



しかし多くが、

辿っていけば根本は変わらないはずである。




また実は

☆走のプログラムは固定してはいけない


この事実こそ知る必要がある。


否定表現ではなく


「より柔軟なプログラム」をとした方が適切か。

まあそのままいってみよう。


これに気づいた

というよりは表現が表れたのがこの1週間だった。

※浜練なんかまさに





確かに

体力をつけるために

一定の距離・時間を走らせること

を続けるのは間違いではない。

しかし

それを終始楽しめる児童は極極少数である。


飽きてきて
疲れてきて
体が重い子も

のらりくらり走っている光景を私は良いとは思わない。

体力がつくとはとても思えない。
むしろ逆だろう。



別の投掛け、提示方法があるはずだ。

歩かせる
走らせない
短くする
同じ時間ボールをつかせる
その場足踏みにさせる

アレンジは無限だろう。



しかしそれを知らない

もしくは

みんなやるからシンドロームに

大人の方から陥っているケースが多いのではなかろうか。



☆走のプログラムは固定してはいけない

のである。

チェックに使うのはよいが。


「柔軟な」というのは教育界で言われ続けているはずだが。




実は他の学習においても同様のケースもある。


人によるのである
時によるのである

応じることが求められるのである。




走という身体運動であるが故に
リアリティの伴う気づきや学びがあるのである。



ストップウォッチのお父さん
ストップウォッチのお母さん
ストップウォッチを先生

私は正直恐い。

一緒に走ってくれたらうれしい。

それは誰にでもできる。
やろうと思えばできる。

でも多くの大人ができない理由を並べ出す。




数値評価と感情評価以外の価値指標を教員・大人が持つ必要がある。


読書ではできない。
論文執筆でもできない。
現行のフォーマルな研究会・研修会でも難しいだろう。


ここでもリアルな経験でしか血肉化しない。





となれば


まずは教員もしくは教員志望の学生に


多様な
多彩な
多角的な

走経験をしてもらうしかないのではないか。

手がけてみればきっと楽しい。

きっちぃとか
もういやとか

いいながら楽しんでいる光景が目に浮かぶ。

じゃあ子どもたちにはこうしてみようと

独自にアレンジしたアイディアも浮かぶだろう。



その過程で確かに当事者たちは再生される。


心身共にうろこを落としてもらうのである。


既成概念や固定概念を崩しにかかるのである。


そのことが

走教育を変えるだけでなく

身体活動を通じての人間の考え方


つまり


思考習慣、行動習慣をも変えていくことにつなげられないか

と思う。



持久走教育、長距離走教育に関する研究はとりあえずたくさんある。

たくさんあるがゆえに

ダイレクトに教材研究に乗り出すのは私の仕事ではない気がしている。




それよりも


走教育がより充実し

そのことが他の教育また学習にも派生していく


いわば

カラクリを


いわば

循環を



学校内にも社会内にも生み出していくことが

今後の仕事ではないかと思っている。


まだまだランナーはマイノリティである。


ということは


ランニングはマイナースポーツであるのだろう。

別に走らなくてもよいのだが、

あらゆるツールになることだけは確かだろう。
(ここはもう少し資料と事実を生かして整理が必要)


みなさんはどう思うだろうか?




続く。



Posted by 走る先生 at 10:58│Comments(0)
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