2018年03月10日
依然経過(難解さの中身)
・走を人間教育に生かす
といった第1の命題を挙げたが、
実のところ
・走る先生を育てる
という裏の命題がある。
正しくは
・走ることで思考及び精神の整理ができる先生を育てる
・走ることで気づく知見を教育に生かすことができる先生を育てる
となろうか。
表現はまだ熟していない。
そのため
前回の
1、小学校における持久走教育はどのように取り組まれているか
これすらあとづけに過ぎない。
持久走をどうこう動かしたところでその成果の程度は見えている。
持久走の追究にエネルギーを割く価値を自分に対して問うている。
他の研究者・教育者が行っているからでもある。
2、児童たちはその持久走学習をどのように感じているか
ここは感想文分析になるが
テキストマイ二ングといわれる研究手法を用いて体育全般においては行われている。
人間教育を掲げるのであれば
いずれにせよ
なぜ走なのか。
まず第1にクリアすることだろう。
素材は集まりつつあるが、
それらの素材を使う理由を含め客観的な著述が求められる。
ここだけでも相当ハード。
・多彩な走経験をしている大人が非常に限られる
といったポイントにももう少し突っ込んでいく。
ここも併せて
私が向かおうとしている研究の難しさを確認。
①大人ですら多くがわかり得ていない領域に進もうとしている
②学校教育においていまだ蠢く他のカオス的諸問題が夥しい
この2点だ。
「多彩な走経験」というのは
単に走り方の数ではない。
レースの種類と量でもない。
もちろんランニング仲間の数が該当するわけでもない。
ますます泥沼にはまりそうだが 踏ん張りたいところ。
①の「大人ですらわかり得ていない領域」
これを「子どもたち」まして「学校教育」にあてようとすることに大きな“距離”がある。
②の「カオス的諸問題」を考えると
それよりも(走るよりも)優先することがあるでしょ、となろう。
そこで開き直って
やった人しかわからない といってもしかたがない。
それが事実だからトンネルを掘り続けるのだが。
やった人でもわからない ことも加わるが。
もとに戻ろう。
私は持久走教育をどうこうしたいわけではない。
ランニング愛好者を増やしたいわけでもない。
走ることが大いに生きることの手がかりになり得る
ということを明文化し、
多くの方に経験を通じて気づいて頂きたいのだ。
走ることを誘っても
バリアを張る人の方が多いが、
誰からも言われずして
走ることにのめり込む人たちが
自らの人生を自ら改正していくケースは非常に多いのだ。
それは記録のみの走力から見えるものではない。
「こうしてみていると人となりが見えますね」
「心技体の言葉のように「心」が最初なんですよね」
先日の某マラソン大会の解説引用だ。
※マラソン中継は前中後に現れる言葉にぜひ注目して頂きたい
制限時間5時間30分のフルマラソン
5時間29分59秒でガッツポーヅ
5時間30分1秒で天を仰ぐ
(実際はちゃんと測定してもらえるようだが)
どちらにも価値があると思える。
ここでも記録のことを言いたいわけではない。
その背景とその後(いわば腹景?)はやはり多彩。
本人の心理や思考に関連しないはずがない。
といった観点である。
そもそも
エントリーという行動選択から
本人の意志も意思もあるわけだが。
そのことが心理にも日常にも影響を及ぼすわけだが。
またズレ出した。
大会出場を推奨しているわけでもない。
ようは
自ら体を動かすことで
いまの自分の状況を多角的に捉え
次の行動を模索・検討する
ことが日常の充実に変わり得る
その手段として走ることが手っ取り早い
といった概観を整理していきたいのである。
呼吸、代謝、解毒、脳制御のレベルが歩くことよりも遥かに高いことも参考にしたい。
ゆえに
☆走のプログラムを固定してはいけない
という視点に収束する。
他者と同じ距離・時間を走ることは
チェック、安否確認、競走機会、共走機会、対話機会
でよい。
運動と対話の存在はまずもって脳に良い。
本来は日々自ら整え自ら省み自ら次の行動を編み出す
しかないのだ。
だから選択の1つに
歩くことがあっても良い
となる。
人によるのである
時によるのである
応じることが求められるのである。
やった人にしかわからない
やった人でさえわからない
もはや禅問答になる。
(白隠展@静岡市立美術館にいってみよう)
禅の根源は武士道である。
が
こっちの領域はこれまた果てしない
ならびに現代人にはますます怪しまれるため
さらっといきたい。
実際は
本当のトップアスリートはこういう領域を語らずして知るわけだが。
またそもそも日本人らしさでもあるのだが
いまは表向けには通用しなくなりつつある。
理論大好き研究者が増えてしまった
理論大好き指導者が増えてしまった
理論大好き愛好者が増えてしまった
この点も みなさんはどう思うだろうか。
各スポーツ界
マスコミの問題もあるが、
理論を外した選手しか勝てない
この事実から顔をそむけてはいないだろうか。
最先端の○○を用いて
こんなものに興味がありますか?
語弊があるかもしれないが、
体罰もパワハラも従来教育力があるものでした。
理屈抜きで心と体を鍛えていかないと強くならないのです。
あ、
いつのまにか語調が変わりました。
(ここでの文章は私の思考ドミノなので了承願いたい)
闘うための知恵と引き出しを増やすしかないのでしょう。
万が一のことがあっても生き延びること・勝ち残ること
こういったものに着手しない限り
大衆に埋もれるだけの人生を送り続けるのでしょう。
(だから走る以外の手法があればそちらでよい)
走ればすぐに
というわけでは決してありません。
走ればその活路を見いだす可能性があるのです。
考えることから始めるのではなく
まずは動くことだと思うのです。
まずは動くための心を持つことからだと思うのです。
個人で子どもたちダケにアプローチをかけても限界があることは見えています。
そのため
私は大人と大人になろうとする人
特に大人になろうともがく人を厳しく応援していくために
いまの研究を進めていきます。
何のためにキープです。
続く。
※頂いたご意見・質問に対しては次回以降随時補います
Posted by 走る先生 at
09:56
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