2018年03月19日

走生の懸け橋②(何を手掛かりとするか)




第2弾は

「何を手掛かりとするか」

である。

進める上での留意点はいくつかあるが、
客観性の獲得はまずもってクリアしなければならない。

興味を持った本や資料にのめり込むのは
おもしろいかもしれないが

自身だけが心地よくなりすぎて
他の理解を得られないことの方が多い。

とはいえ、

路線を誤らなければ
脱線を許さなければ

手掛かりにできるものは多いようで
実は限られるだろう。


読んだ方がよいものはたくさんある
逢った方がよいひともたくさんいる。


が、
読むべきもの
逢うべきひとというのは

路線を誤らなければ
脱線を許さなければ実は限られる。



とはいえ?、
必ず脱線する。
道草や寄り道にヒントやチャンスが潜むことがあるからだ。
道草や寄り道に救われることも多々あるからだ。
(矛盾を受け入れよう)


最後まで貫くために必要なことは

特攻ではない。


波打ちやスパイラルや緩急が必要である。
無であったり横蹴りであったり

ぐしゃぐしゃになりながらまとめあげていくのである。

実はさぼりやあそびが功を走す。
そのあたりを言い訳的に堂々と記しておくことで
メンタル操作をクリアしたい。

研究の大半
いやいや人間生活こそ大半が精神活動だからだ。
だからこそ今回は“肉”の話・研究ではない。

大きな結果には必ず裏文化が存在するのである。
みんな結果を出すために“うまく”やっている。


いってみよう。

・・・





・人も走れば縁にあたる

この知見に辿り着いた。

多くの八方美人が経験することである。


テーマが定まらないまま
いろんなところに首を突っ込んで
気づいたら知り合いは増えている。

あくまで知り合いであり、
そう思いたいが、
心でつながっているかどうかは別の話だ。
(SNSとて冷めてみると気持ち悪いでしょ)


ともあれ
前進を続けていると縁にあたるのである。


前回の山﨑先生もそのお1人であった。


思いが強烈なものは
それが本人と時代に逢ったものであれば

ボコボコとぶつかりながらボコボコにされながら、
きっと実現する。
(やっぱりメンタルが大事)



差し当たり、

手掛かりとしていく(つもりの)ものを挙げておこう。
レースへのエントリーのような意志表示である。


キーパーソンの1人に山西哲郎先生がいるが、

その山西先生が編集する
『ランニングの世界』にはあたっておく必要があろう。
その中の山西先生の言説はしっかりと整理していきたい。

現在第22巻までが発刊されている。
22冊を取捨するだけでもずっしりだ。

第22巻では私自身も寄稿させて頂いた。
「自著を語る」という編集後記のようなものになった。
山西先生は『明日の学び舎』の推薦文を書いて頂いたご縁でもある。

やりたいとかやりたくないとか関係なしに
やらざるをえないことはたくさんある。
それがホントの仕事のような気がしてならない。

やらなくてもいいようで
導かれるがごとくやってしまうのである。
ここでの著述もその1つだ。


練習日誌のような
受験手帳のような
研究履歴である。



いましばらくは「質的研究」になる。
(それで終わる可能性もあるが)


その「質的研究」をも
しかと理解しておく必要がある。
しっかりとあたっておく必要がある。

「あたり方」であるが、
同一人物の著書を網羅的にあたれば
他にあたらなくてもおおよそクリアできるように思う。



佐藤郁哉も良いが
非常にボリューミーなため好井裕明を選ぶ。
何よりタイトルをみるだけでも刺激をもらう。
新書というライト感がよい。


『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』(光文社新書)
『違和感から始まる社会学』(同上)
『「今、ここ」から考える社会学』 (ちくまプリマー新書)


このあたりだろうか。
KJ法の川喜田二郎も中に入っているのでは?と読める。



質的研究に対しての考え方を整えたら分析方法を学ぶ。

こちらは佐藤の

『QDAソフトを活用する実践質的データ分析入門』(新曜社)

がにおう。

現に半年以上前に「教育フィールドワーク論」という授業でご紹介頂いたものだ。
(未読…)

文字データを整理して「意味の世界」を掘り起こし、
論文としてまとめていくための技法を謳ったものである。

そこまでやってようやく本線となろう。



いやはや

1人を網羅的にというのはここでも該当する。

山西先生にあたると、

・ジョージ・シーハン
・パーシー・セラティ
・今井尚英
・灰谷健次郎

が頻繁に引用されている。
また「走生の懸け橋」に強い関連性を感じるものである。

『三途の川を走って渡ろう』
『ランニングダイアリー』
『永遠のセラティ』
『走る生活』

あたりも差し込む可能性がある。


しかし
ここまでは一般書である。
学術論文での先行研究を今一度整理してみたい。
次回かな。



過程そのものが人間観を研くこと・磨くことのような気がしてならない。

過程そのものが本気であればある程、

歩みというよりも走りという言葉が当てはまるのではないか。

走るという概念を再構築する研究になろう。





初心忘るべからずではないが、

ここに山西先生からの推薦文を引用しておきたい。
『明日の学び舎』(p519-520)


・・・・・・・・・
走りて学び生きること       山西哲郎

 「タカユキ。じっとしていて小鳥の鳴き声をきいたり、蝶の飛んでいるのを見るのと、走っていて、それを見たりきいたりするのではどこかちがうと思わないか」
 小学校の教師から児童作家になりそしてランナーになった灰谷健次郎さんは、著作『ほほ笑みへかけのぼれ』にこう述べながら、子どもたちがマラソンを走るまでを表している。灰谷さんと僕は、淡路島や沖縄の自然のなかを共に走りながら、心地よく感じながらよく話をしてきた。
 二見さんが本著を「走ることは単に方法を追うのではなく、考え、生きることにつながっていくことである」と書き始めているが、まさに灰谷さんの世界であり、それはかつてのオーストラリアの世界的コーチであったパーシー・セラテイの思想につながっていく。
 僕は大学でマラソンを始めたとき、セラテイの本の出会い「ランニングは芸術だ」という一文で、走って感じることにこだわり、学生や市民ランナーと言葉によってともに書き表すことが指導の根源となった気がする。
 二見さんは子どもの教育に走りを生かせないかと、『明日の学び舎』と題して日々の授業によるランニング教育のストーリーを創造するという誰しもやりとげなかった大作に挑んだのである。
 二見論は国語、算数、理科・・といった教科とランニングを融合させることは科学という教科を子どもにとって欠かしてはならない感性によって教育の本質を成立させることである。ルソーは「人間よ、より人間的になれ」とするが、走ることは、より人間的に学ぶことになると二見さんの著作から学ぶのである。

・・・・・・・・・・


続く。


走生の懸け橋②(何を手掛かりとするか)




Posted by 走る先生 at 12:58│Comments(0)
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